2014年も押し詰まってきました。年賀状に手がつかないまま、いくつか残る宿題と格闘中です。
この記事アップも、年内にしなければと思っていたことの一つです。少し長くなりますが、お読みいただければ幸いです。
東村山市議会は12月定例議会の最終日に「ヘイトスピーチ(憎悪の煽動)に反対し、根絶のための法整備を求める意見書」を24人の議員全員の賛成で採択しました。
これについて自分のブログで経過と思いを綴ったところ、ツイッターに約180件、ブログには6件のコメントが寄せられました。殆ど初めてコメントくださった方ばかりであり、関心を寄せてくださったことに感謝申し上げたいと思います。たいへん申し訳ありませんが一つ一つお答えする時間的な余裕がありませんので、質問と言う形も含めて寄せられたご意見を踏まえ、以下、私なりの考えを記します。
私の本意は先日のブログにも記したように、まずこの東村山から、人権を無視した差別的な言動の一切がなくなることを心の底から願っているということです。
それはもちろん、外国人の問題だけではなく、アイヌ等の少数民族、性的マイノリティ、障がいや病気を理由とした差別、偏見、排除等のあらゆることを指します。子どもたちのいじめ問題も、私にとって、根っこは同じです。
そして、差別と言うのは決して他人事ではなく、自分自身の人間的な弱さの内部に絶えず潜んでいるものであり、いつそれが表出するかわからないものだ、という自覚が私にはありますし、それこそが大事なのだと考えています。50年少し生きてきて、いじめや差別的な言動を取ったことがなかったなどと到底言えませんし、そう心に決めてもなかなかに難しいことではありますが、差別し、排除する側に立つことのないよう、心を研ぎ澄ませ、落ち着かせ、生きていたいと思っています。
多くの場合、差別や偏見、排除は、無知や無理解から出発するものだと思います。
しかし、この「知っている」「理解している」ことそのものが、自分自身の経験や学びの歴史、出会ってきた人たちの違い等によって大きく異なるものですので、白と黒くらい中身が違うこととなります。
現に、在日韓国・朝鮮人を例にとっても、その存在を歴史的にどう理解しているのかが大きく異なるため、主張は全くかみ合っていません。私は、私自身の子どもの頃から現在に至る学びの中で、「在日特権」ではない、という理解であり、在特会等の主張をHP等でつぶさに読んだ後でも、その認識に変わりはありません。
しかしそれは、私はそうは思わないけれど、そう思う人たちがいることを全面否定したり、その主張を声高につぶしにかかろうなどということでは全くありません。あらゆる人が自分の考えに同調してくれるなどということはあるはずないですから。
重要なのは、「違う」という事実を受けとめた上で、相手も日々生きていることを認め、できるだけ穏やかに議論し、自分の主張を理解してもらおうと努力を重ねることなのではないかと思います。
その過程の中で、相手の主張の中から自分が思ってもみなかったことに気づくこともあるし、その逆もあるかもしれない。そうすることで、自分は死ぬまで成長できるのだと思っています。
私の土台にあるのはそういう考え方です。
その上で、対象者が目の前にいるかもしれない、いや、いるからこそ行われてきた特定の民族名を挙げての「〇〇人を殺せ」「〇〇人を皆殺しに」「〇〇人はゴキブリ」等と言い放つデモや、ビラの内容については、明らかな人種差別であり、当事者を恐怖に陥れる文言や手法についても、表現の自由で保護されるべき範囲を逸脱している、と私は考えます。
ましてや、反論も抵抗もできない子どもたちに向けて行われた京都朝鮮人学校への「街宣」などは、この国に生まれて育ったものとして悲しく情けない思いでいっぱいでした。
少なくとも、いい歳をした大人が、「女こども(※あえてこういう表現を使いますが)」に向けて大声で威嚇したり怒鳴りつけたりするのはやめませんか?と申し上げたいと思います。
そして私がわからないことの一つは、在日特権の廃止を訴える方や、朝鮮人学校へ街宣を行った方たちは、どうしてその主張を政府ではなく、当事者へ向けるのか、ということです。
そういう意味では、米軍基地前で「米兵は出て行け!」等と叫ぶ行為も私の中では受け入れがたいものですし、本当にそれが問題だと考えるのであれば、政府に対して徹底的に主張をぶつければよいと思いますし、政治的多数を形成するように動かれればよいのではないか、と思うのです。
安倍首相に対して「死ね」という表現は許されるのか?もちろんNOだと思います。もし自分が目の前で見たら、「やめましょうよ」と言います。もし私自身がそのようなことを言われたり書かれたりしたら、場合によっては侮辱罪や脅迫罪で訴えることを検討するでしょうし、それは現在の法整備で対応できるものと考えています。
「朝鮮人ではなくアメリカ人ならば同じ表現は許されるのか?」といった問いもいただきました。これももちろんNOだと思います。ヘイトスピーチとして規制すべきは、なにも韓国、北朝鮮、中国等に限られたものではなく、あらゆる人種や民族に対する憎悪を煽動する表現だと私は考えています。意見書の文章もそうなっているはずです。
「他の民族による日本人に対する差別」という指摘も何人かの方からいただきました。ご本人として被害を受けられているのあれば問題だと思いますし、具体的に何を指すのか、現行の法で対応できないものがあるのであれば教えていただきたい、と率直に思います。
東村山には、国立療養所多磨全生園があります。このことは私の中できわめて大きなことです。
偏見と差別に満ち満ちたハンセン病患者の苦難の歴史を知って心に刻んだことは、「無知の怖さ」であり、「内なる差別の心」です。
あらためて、排他・排外主義からは何も生まれない、いや、悲劇しか生まない、と思っています。
日本人も外国人も、男性も女性も、子どもも大人も、富める人も貧しい人も、障がいのある人もないと言われる人も、住所を有する人も他市から通勤や通学をされている方も、どのような職業にある人も職のない人も…一人ひとりが大切な市民です。
誰も排除しない、のけものにしないで、力を合わせてまちをつくっていく。
今回の意見書採択は、東村山市議会としての主張を民主的手続きの中で示したものだと私は考えていますし、同時期に全国で同様の意思を示された地方議会があることを心強く感じています。
拙文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
尚、今日ここに書いて来たことは、もちろん私個人としての考えであり、東村山市議会や、ましてや東村山市としての見解ではありませんので、その点はご理解賜れば幸いに存じます。