東京五輪を諦めよう

連投です。

私は入院できて毎日完全看護下で見守っていただき、10日間で退院できたから本当に恵まれていた。

でも、昨日は84人、この一週間で761人、4月25日の緊急事態宣言以降の31日間で2,481人の方が命を落としている。

ベッドの上で鼻に酸素チューブを入れてテレビばかり観ていたけれど、病院に入ることさえ叶わずに亡くなる人がいることが淡々と報じられていた。

絶対にあってはならないことなのに。

最初に入った病室で一緒だった70代くらいの男性2人は、重症病棟から戻って来られた方たちで、入院してから2か月ほどになると聞いた。「この部屋に戻ってきたらもう大丈夫だからね!」と看護師さんたちに励まされて、涙を浮かべて頷いていた。

そして世界中でワクチンを打つこともできずに亡くなる方が今日も後を絶たない。

遅くなったけれど、恥を忍んで言います。

「オリンピックを本気で諦めよう。」

命がけで頑張って来た選手の皆さんは本当に気の毒だし、その努力も理解せずにこんなことを言うことを申し訳なく思うし、個人的には中学時代の尊敬する先輩が招致委員会事務局の中心で本当に力を尽くされて、「TOKYO!」の瞬間に抱き合って喜んでおられた映像が目に焼き付いて離れない。

けれど。

本物の命に勝るものはない。

悲しけれど、辛いけれど、オリンピック、パラリンピックの開催を諦めて、そこに掛けることになっている人もお金もすべて、感染を止めて、1人でも多くの命を救うことに振り向けよう。

いろんな考えがあることは承知の上で、私自身の考え、スタンスは、こう決めました。

コロナに罹って入院し、完治して戻ってまいりました

申し訳ありません。このブログでの報告が遅くなってしまいました。

新型コロナウイルス感染症に罹患し、5月13日(木)から22日(土)まで、都立多摩総合医療センターに入院していました。

14日(金)夕方には氏名非公表で市議会ホームページに掲載されました。

ご心配いただきご連絡くださった方、どうもありがとうございました。

お陰様で完治し、退院して3日目の朝です。

私自身は他の方に感染させる可能性はゼロで、体調も問題ありませんが、最初の発熱から退院まで18日間もかかったので、足腰のチカラはビックリするくらい落ちました。今は健康的な食事と近所の散歩などしながら、体力の回復に努めているところです。

そのため、5月21日(金)の6月議会初日本会議を、19年目にして初めて欠席しました。

他にも感染者や自宅待機者が出たため、実質的な初日は6月2日(水)になりました。そこには万全の状態で臨めるようにします。

東村山市議会の議長について(その1)

市議選から2年が経ち、4年任期の折り返しを迎えたので、東村山市議会では正副議長をはじめ、すべての委員会の正副委員長や委員、一部事務組合に出向く議員、市の各種付属機関の委員など、すべてをリセットすることになっています。

東村山市議会では、と書いたのは、ルール上は4年間同じでよく、また1年ごとに替える議会も少なくないからです。うちは2年。

ですので、手続き上は、6月議会の冒頭で会期を決定した後に休憩が宣され、副議長が登壇。「議長から辞職願が提出されました」として辞職を議会として認める議決を行い、副議長のもとで新しい議長を選出します。

続いて、新しい議長から「副議長から辞職願が提出されました」となり、議決をとって認め、選挙に入る、という流れになります。

さて、あなたのまちの議会では、議長をどうやって決めているかご存知でしょうか?

議長の選出については、我こそは!という人が名乗りを上げ、なぜ議長を務めたいのか、選ばれたらどうするのか、という所信を全議員に対して申し述べ、それを踏まえて選挙を行うという議会が増えています。

非公式に試行していたものを、傍聴者もライブ配信も入れて公式に行うように定めた議会がいくつもあります。

それまでは、選挙の時刻になっても誰が候補者なのかさっぱりわからない(議員らには非公式に声が掛かっていますので知っていますが、傍聴者からはわかりません)ままに投票が行われ、〇〇議員x票、△△議員y票、◇◇議員z票となって結果が出るわけです。いわゆる密室談合と言われても仕方のないやり方ですよね。

東村山市議会でも、私が入る前からずっとそういうやり方だったので、市民から改善を求めるご指摘を幾度もいただいていました。

そこで、議会基本条例制定へ向けて超党派での議論が終盤を迎えていた2013年(今から8年前)、任期折り返しの6月議会の初日に、私たち何人かが所信表明の採用を強く主張した結果、対象は議員だけにした非公式ではありましたが、肥沼茂男議員、奥谷浩一議員、そして言い出しっぺの私が手を挙げ、全議員の前で所信を申し述べてから選挙を行いました。

結果は、肥沼議員13票、奥谷議員9票、佐藤2票。

私自身は惨敗でしたが、「市民に開かれた議会にしていく」という言葉を3人ともが全ての議員の前で口にした意味はとても大きく、12月議会での議会基本条例の可決、翌年4月の施行へと議会が一丸となって走ったのでした。

私自身は、オープンに選挙をして敗れたからには、肥沼議長の意向を十分に踏まえた議会改革を進め、支えていこうと動きました。

当選された肥沼議長は基本条例制定時の議長として、その後月刊ガバナンスや他のメディアにも取り上げられました。制定後も様々な挨拶の場で議会改革を語り、議会報告会のPRの先頭に立たれました。これは、その後の東村山市議会の方向性をしっかり定めることになりました。

その2年後の選挙直後の議長選挙(平成27年5月臨時議会)でも、同じ形での所信表明会が設けられ、肥沼議員13票、島崎洋子議員9票、佐藤3票で、肥沼議員が引き続き選出されました。

ところがその2年後(今から4年前)、私としては今度こそ本格施行へ進むものだと思っていたのですが、話はよもやの方向へ…

「所信表明をして何か変わったのか?」「投票結果を左右したとは認められない」「単なるパフォーマンスにしか思えない」等々、ネガティブな意見が続出しました。

私は「みんなの前で抱負を口にすることの責任は、たとえ非公式であっても重く、少なくとも前回同様に継続すべきだ」と主張しましたが。が、「3回も試行はあり得ません」という事務局の発言も結果として否定派の背中の押した形になり、あっという間に「非公式開催」すらしないことになってしまいました。予想していない展開で、今思うと油断があったかもしれず、今でも自分の力不足を大いに後悔している瞬間です。

さて、ずいぶんと長くなりました。

東村山市議会では、最も期数の長い議員は朝木直子議員(6期)で、次が私(5期)です。

こうしていろんなことの歩みを整理して書き記すことの大事さを最近とみに感じるのもので、あくまで私の経験、記憶、会議録の確認をベースにしました。

次回は、では今回はどうなるのか、どうすべきと私は考えているのか、を書きたいと思います。

会派を解散し、独りの立場に戻ることにしました

DSC_3192

前回の選挙後に、白石えつ子議員(東村山生活者ネットワーク)、かみまち弓子議員、藤田まさみ議員(いずれも立憲民主党)と4人で結成した会派「つなごう!立憲・ネット」。

互いの違いを認め合いながら議会内での活動の幅を広げるべく、まずは2年間の約束でスタートし、折り返しのこの時期に改めて協議することにしていました。その後、昨年4月末に藤田議員が離脱した後は3人で継続してきましたが、私なりに考えに考えた末、4月下旬に次のようなメッセージを2人に送り、話を切り出しました。

「議会基本条例4条陳情に端を発したこの1年間の顛末を私なりに真剣に振り返り、陳情に反対した一人会派3つを結果として切り捨てる形になったことの責任は、会議に参加していた私にもあるし、そのような中で、議会運営への参画を理由に、このままの形で自分たちだけが会派を維持することはおかしい、と考えるようになりました。

私自身も一度同じ立場になった上で、現状のルールの中で何ができるのか、何をすべきなのかを考えて動き、問題があれば同じ立場の議員たちとフラットに話をして、改善の動きをつくる、というのが筋なのだろうと思っています。

代表者会議、議運、常任委員会委員の選択権、附属機関等委員…3人で会派を組んでいることで得ているアドバンデージはたくさんありますが、それを手放さないようにしていること自体、既得権の維持、己の保身であり、優位な立場に立った者の物言いだと自戒しています。

私自身、原点に返る、という思いもあります。」

以来、2回ほど話し合いを持った結果、会派を解散し、それぞれが一人で後半2年間のスタートを切ることを2人に理解してもらい、解散届を提出しました。

私自身、19年目を迎える中、7年ぶり、通算9年目の独り者。今年4月から「会派は2人以上」とルール変更しましたので、以前のように一人会派とは言いません。

独りになったからこそできること、すべきこと、やりたいと思います。

引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

で、あらためて…

ここ2年の議会内の対立と分断の動きは極めて深刻です。

己は抱えたものを手放さず、お互いに自陣から出ることなく、リスクを取ることもせず、相手の非難に終始する。善くなるわけがありません。

私自身も、議論の先鋭化や分断に加担した面があると反省しています。後半2年間で少しでも修復し、立て直しに向けて努力することが、私が完全無所属という立場でこの仕事に就かせてもらっている大きな使命だと考えています。

正副議長以下の人事が一新されるこのタイミングで一旦独りになり、自分が東村山市議会の1/25として出来ること、すべきことをもう一度イチから考え、行動していこうと思います。議員相互の尊重と対話を呼びかけ、議会全体が市民に信頼され、未来に向けて絶えず改善を重ねて進んで行くために、私自身はどうすべきかを真剣に考えて、行動に移していきたいと考えています。

会派を組ませてもらったことで得たことはとても多く、この2年間、様々な面で不十分な自分に代表を任せてもらったことには、心より感謝しています。

DSC_0190

さあ、学童保育の「質」の話をしよう!(その1)

三多摩連協さんが、議員向けのオンライン学習会を開いてくださるとのこと。

いただいた呼びかけ文にはこうあります。「お聞きします。みなさんの自治体の学童保育は、子どもたちに寄り添ったものになっていますか?保護者など市民の声を十分に検討・反映した事業計画はつくられていますか?わたしたちは、学童保育の課題を改善し、より発展させていくために、保育実践の現場の声、制度等の課題を把握することが急務と考え、オンライン学習会を企画いたしました。」

保育所と違ってほぼ自治体任せで法的な縛りは何もない状態だった学童保育について、国は数年前にようやく運営の基準や指針を設け、それを受けて自治体も条例をつくって量と共に質の確保に遅ればせながら取り組んできました。

これは全国の親御さんたちと指導員さんたちの長年のご尽力によるところが大変大きいわけですが、自治体による格差は依然として大きいですし、今だいじょうぶだから今後もOK…とは言えないと感じています。

だからこそ、私たち議員が学び合うことで、それぞれの自治体の子どもたちにとっての最善の利益を追求することが大切であり、まさに時宜に叶った企画だと思います。

東村山市では、私が議会に入った2003年以降では、希望する児童の急増によってあちこちで大型化(詰め込み状態)が続いた時期、それを解消しようと同じ小学校区域に第2学童を一斉に設置した時期、国が突然6年生までの受入れを決めたことで対応に追われた時期、そして残る待機児の状況に対応するために4つの小学校内に公設民営(指定管理者)の施設を整備した昨年度…と様々な変遷がありました。

渡部市長は昨年12月議会での所信表明の中で次のように述べられています。

「4つの児童クラブの整備を始め、 児童の受け入れに必要な確保の方策を講じてきた成果として、 当市における待機児童は概ね解消されたところであり、児童クラブ総体としては在籍児童数を大きく上回る受け入れ枠を確保していることに鑑みますと、私としましては、現状のニーズに対応しうる 環境が量的にはほぼ整ってきたのではないかと考えているところでございます。今後は、待機児童等の状況の推移を注視しつつ、個別の施設の状況を踏まえたより良い運営のあり方を検討しながら、児童クラブにおけるサービスの質の維持向上に努めてまいります。」

私もほぼ同様の認識であり、「質」の話をすべき時期が来た、ということを歓迎したいと考えています。