市議選から2年が経ち、4年任期の折り返しを迎えたので、東村山市議会では正副議長をはじめ、すべての委員会の正副委員長や委員、一部事務組合に出向く議員、市の各種付属機関の委員など、すべてをリセットすることになっています。
東村山市議会では、と書いたのは、ルール上は4年間同じでよく、また1年ごとに替える議会も少なくないからです。うちは2年。
ですので、手続き上は、6月議会の冒頭で会期を決定した後に休憩が宣され、副議長が登壇。「議長から辞職願が提出されました」として辞職を議会として認める議決を行い、副議長のもとで新しい議長を選出します。
続いて、新しい議長から「副議長から辞職願が提出されました」となり、議決をとって認め、選挙に入る、という流れになります。
さて、あなたのまちの議会では、議長をどうやって決めているかご存知でしょうか?
議長の選出については、我こそは!という人が名乗りを上げ、なぜ議長を務めたいのか、選ばれたらどうするのか、という所信を全議員に対して申し述べ、それを踏まえて選挙を行うという議会が増えています。
非公式に試行していたものを、傍聴者もライブ配信も入れて公式に行うように定めた議会がいくつもあります。
それまでは、選挙の時刻になっても誰が候補者なのかさっぱりわからない(議員らには非公式に声が掛かっていますので知っていますが、傍聴者からはわかりません)ままに投票が行われ、〇〇議員x票、△△議員y票、◇◇議員z票となって結果が出るわけです。いわゆる密室談合と言われても仕方のないやり方ですよね。
東村山市議会でも、私が入る前からずっとそういうやり方だったので、市民から改善を求めるご指摘を幾度もいただいていました。
そこで、議会基本条例制定へ向けて超党派での議論が終盤を迎えていた2013年(今から8年前)、任期折り返しの6月議会の初日に、私たち何人かが所信表明の採用を強く主張した結果、対象は議員だけにした非公式ではありましたが、肥沼茂男議員、奥谷浩一議員、そして言い出しっぺの私が手を挙げ、全議員の前で所信を申し述べてから選挙を行いました。
結果は、肥沼議員13票、奥谷議員9票、佐藤2票。
私自身は惨敗でしたが、「市民に開かれた議会にしていく」という言葉を3人ともが全ての議員の前で口にした意味はとても大きく、12月議会での議会基本条例の可決、翌年4月の施行へと議会が一丸となって走ったのでした。
私自身は、オープンに選挙をして敗れたからには、肥沼議長の意向を十分に踏まえた議会改革を進め、支えていこうと動きました。
当選された肥沼議長は基本条例制定時の議長として、その後月刊ガバナンスや他のメディアにも取り上げられました。制定後も様々な挨拶の場で議会改革を語り、議会報告会のPRの先頭に立たれました。これは、その後の東村山市議会の方向性をしっかり定めることになりました。
その2年後の選挙直後の議長選挙(平成27年5月臨時議会)でも、同じ形での所信表明会が設けられ、肥沼議員13票、島崎洋子議員9票、佐藤3票で、肥沼議員が引き続き選出されました。
ところがその2年後(今から4年前)、私としては今度こそ本格施行へ進むものだと思っていたのですが、話はよもやの方向へ…
「所信表明をして何か変わったのか?」「投票結果を左右したとは認められない」「単なるパフォーマンスにしか思えない」等々、ネガティブな意見が続出しました。
私は「みんなの前で抱負を口にすることの責任は、たとえ非公式であっても重く、少なくとも前回同様に継続すべきだ」と主張しましたが。が、「3回も試行はあり得ません」という事務局の発言も結果として否定派の背中の押した形になり、あっという間に「非公式開催」すらしないことになってしまいました。予想していない展開で、今思うと油断があったかもしれず、今でも自分の力不足を大いに後悔している瞬間です。
さて、ずいぶんと長くなりました。
東村山市議会では、最も期数の長い議員は朝木直子議員(6期)で、次が私(5期)です。
こうしていろんなことの歩みを整理して書き記すことの大事さを最近とみに感じるのもので、あくまで私の経験、記憶、会議録の確認をベースにしました。
次回は、では今回はどうなるのか、どうすべきと私は考えているのか、を書きたいと思います。