父・次郎との別れ

私事ながら、父・次郎が昨日(5月26日)…正確には一昨日になりますが…20時過ぎに86歳の天寿を全うしました。
D※2年前の春。強引に連れ出した国立大学通りの桜の木の下で

facebookでは昨日、介護用ベッドの入替えとして報告をして、そのままベッドの脇で20時まで、時折うめきつつも懸命に話そうとする父と濃密な時間を過ごしました。

父が覚悟を決めていることは十分わかりましたし、明日まではもたないよ…と口にしていましたので、このまま帰宅するのは怖い気がして、19時にかかりつけの先生に往診に来ていただきました。
血圧は140と70、少し高いけれど大丈夫。ろれつが回らないけれども頭脳は問題なく回転していたので、「急変はないと思いますよ。でも不整脈が強いので薬を飲んでおいて」と言われ、小さなカプセルをいただきに。嚥下が厳しかったので苦戦はしましたが、何とか飲みこんだ父。
弟2人に「だいじょうぶだと思うが、仕事帰りに寄れ」とメールをしつつ、「明日また来るからね」と言う私に、父は十分な反応を示しましたので、天井の蛍光灯を常夜灯に切り替え、おやすみを言って、車で東村山をめざしました。

それから20分後、運転中の私に母から電話が入りました。
「あなたが帰って部屋を覗いたら、お父さんが息をしていないのよ」。

一瞬耳を疑いましたが、すぐにクリニックに電話を入れるよう伝えてUターン。
20分後に再会した父は、40分前と何にも変わらない感じで眠っています。

でも、あれほど激しく動いていた喉元は、ピクリとも動いていません。
胸の上に置いた手は冷たく、何が起きているのかは疑う余地がありません。

昼間、ゼロゼロする呼吸の中で、父はもつれる舌で、でもはっきりと言いました。
「人は集めるなよ。死んだ人間のために生きている忙しい人を集めなくていいんだ」
「余計な金はかけるなよ。生きている人間が大事だ」
「泣くなよ。おめでとうなんだからな」

どれも、ずいぶんと前から、酒を飲むと聞かされてきた言葉です。

「だいじょうぶ。耳にタコができるくらい聞いて来たから、心配いらないって」

そう私が言うと、父は涙を流し、大きくうなずきました。

もし急変があったら救急車を呼ぶようにも言われていたので、時折苦しそうにうめく父を見て何度か迷いました。
が、搬送された病院でまた検査をしたり酸素マスクや点滴につながれることを父が全く望んでいないことは、大好きな日本酒を酌み交わしながらこれまで何度も言い聞かされてきたこと。

18時過ぎだったでしょうか。
「たばこ」と父。
電動ベッドを起こし背中を支えながら、吸わない私が火をつけ、父の口元へ。
先週末は自分で煙草を持ち、反対の手で灰皿も支えていたのに、腕の中で私の持つ1本を静かにくわえるだけ。こんなことは初めてでした。
吸い込むこともままならないのですが、耳元で「うまいの?」と尋ねると、小さくかぶりをふる父。
2分ほどして「もういい」という表情をしたので火を消し、ベッドに寝かせました。

直後に「なんにもできなくて、悪かったな」と。
「何を言っているんだよ。ひっぱたくよ」と言うと、「ひっぱたかられるのか。でも、なにもできずに悪かった」ともう一度。
「お尻たたくよ」と言うと、父は「ペンペンか?」と小さな声でちょっと嬉しそうに返してきました。

楽天的でむずかしいことはからっきしダメな母を、「ずぼらだ」「いい加減だ」と叱りながら、いつも気にかけていた几帳面で神経質な父。
駆けつけた10人の孫どもはひとしきり泣くと、眠るじいちゃんの枕元で、生後5か月になる唯一のひ孫・はなをあやしながらいつも通りに賑やかにおしゃべり。

少しだけ苦しげに見えた表情が、今朝は微笑むように穏やかに変わっているかのようでした。

わが父ながら天晴れな最期に、感服し、言い尽くせぬ感謝の思いが湧いてきます。

「長男なのだから、俺が死んでも全部終わるまで泣くな」と言われたのは10代の頃でした。
長い間の約束ですので、4兄弟の不肖の長男として、きっちりと、笑顔で送ってやろうと思います。

※葬儀は父の望み通り、近親者で簡素に済ませようと思っています。
これまでのご厚誼に心より感謝申し上げます。

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