4期16年間の中で、何度か雑誌やネット媒体から原稿を依頼されて苦悶しながら書き上げたことがあります。
その都度、慣れない締切との闘いでしんどかった記憶がありますが、しばらく経ってから読み返してみると、その時々の自分なりの思いや、取り組んできたことがそれなりにまとまっていて、貴重な機会をいただいたのだな…と今さらながら感謝の思いが湧いてきます。
ということで、5年前の2014年2月、日本経済新聞社が発行している伝統ある業界誌「日経グローカル」の「奮闘 地方議員」で取り上げていただいた原稿を今日は掲載してみたいと思います。
私がなぜ市議会に飛び込もうと思ったのか、飛び込んでから何を追求&追及してきたのか、5年前に何を考え、どこを目指していたのか。自分で書いたものですが、その後の5年間、どれだけ頑張れたのだろうか?と背筋が伸びる思いもします。
長いので、前編&後編として2回に分けて取り上げたいと思います。
プロの校正が何度か入ったもので、いつもの私の文章より読みやすくなっていると思いますので、ぜひご一読いただけたらと思います。
http://www.nikkei.co.jp/rim/glweb/mokuji/237mokuji.html
「情報こそ自治の源泉」全員がプレイヤーの自治体をめざして
私たち東村山市議会は昨年12月議会の最終日に、市長提案の「みんなで進めるまちづくり基本条例(いわゆる自治基本条例)」と議員提案の「議会基本条例」をともに可決、成立させました。
いずれの条例も今さら珍しいものではありませんが、自分自身の歩みに照らし、一つの到達点としての感慨を抱きつつ2013年を締めくくりました。
開園間近の保育園名が個人情報!?
2003(平成15)年3月、市議会への挑戦を決断して翌4月に26人中18位で初当選。無所属の一人会派「希望の空」として、右も左もわからない世界での日々が始まりました。
直接的なきっかけは、水面下での計画が発覚した個人立の認可保育園問題でした。規制緩和に乗じたような基準ぎりぎりの中身とともに、市は「個人立なので、個人情報にあたる」とし、公開請求された書類の園名や重要箇所を黒く塗りつぶしてきました。私は、市内の保育・教育関係者の皆さんとともに「待機児童の解消は、保育の質を確保し、多くの関係者の協力が得られる公明正大な方法で行うことを求める請願」を議会へ提出し、行方を見守りました。
審査が行われた厚生委員会では、「全額公金で運営される認可保育園が3か月後に開園しようというのに、園名も設置者名も明かさないのはおかしい」と各議員が追及。紛糾の末に呼ばれた情報所管が、「個人情報には当たらない」と答弁し、ようやく最低限の状況が明らかに。お粗末なやり取りの連続に、傍聴席の一市民として、「この行政は何かがおかしい」と強く感じました。
問い続けてきた「情報公開」と「説明責任」
議員として活動を始めてみると、その思いはさらに深まりました。
約100億円の税金を注ぎ込み、狭い駅前に超高層ビルと広場等を計画していた再開発事業では、「組合施行」という手法のために大部分が情報公開の対象外とされ、市民への説明会開催もなかなか実現しませんでした。工事入札への疑義を追及しても、「主体は再開発組合であり、市に直接の責任はない」と答弁。
この状況に危機感を抱いた方たちが起こした行動は、「東村山駅西口再開発事業を現計画のまま行うことについて市民の賛否を問う住民投票条例案」の直接請求でした。市内各所で説明会開催と街頭活動を展開し、1か月の法定期間内に約1万8千の署名を集め、市長に提出。2006(平成18)年11月のことです。
議会では、住民投票制度推進を語る議員のよもやの反対によって1票差で否決され、住民投票は実現に至りませんでした。しかしその直後、事業を牽引し、4期目へ出馬確実と言われていた市長が突然の退陣表明。市長選挙では勝てないと判断した周囲から強い働きかけがあったと言われました。
直後の市長選は、2名が再開発反対や見直しを掲げたのに対し、後継候補だった現在の市長は、「参加と協働」「常設型住民投票制度を含む自治基本条例の制定」という手法の転換を前面に打ち出し、当選。保守か革新か、与党か野党かという旧来の構図からの脱却、そして何より「由(よ)らしむべし、知らしむべからず」の市政からの転換に舵が切られた瞬間でした。
その後現在まで、情報開示とともに公募委員の拡大、無作為抽出等の様々な手法を用いての住民参加が進められ、これまで市政に関わることが少なかった方たちの姿や言葉も次第に伝わるようになってきました。(後編に続く)