矢野穂積氏の死去に寄せて

矢野穂積元市議が11月30日に亡くなったらしい、と先週土曜日の午後に知る。らしい、というのは、現職でなくとも通常は議会に関係者から知らせがあって葬儀の情報などが共有されるものだが、直後の12月1日〜3日は一般質問が連日行われていたにも関わらず、何ら知らされずに私たちはその週末を迎えた。なので、らしい、としておく。恐らく議長らも知らなかったのではないか。

葬儀の情報は耳にしたが、実際に参列したという人が周りに居ないし、存命の可能性もゼロではないが、1週間以上経って役所や議会内では既定路線になっているので、亡くなったと判断して、この記事をアップする。

矢野氏は、1995年の選挙で次点落選となったものの、4位当選となった朝木直子議員が「自分には被選挙権がない」と突如言い出し、議席譲渡という超ウルトラCで初当選。 2年後には最高裁の判決により失職し、その2年後に当選して2019年まで務めたので、6期というのか5期半というのかわからないが、1995年以前の会議録にも朝木明代議員の傍聴者として不規則発言を連発し、時には当時の議長から名指しで注意されているやり取りが残っているので、東村山市議会との関わりは30年以上にわたったはずだ。

平成元年12月22日 東村山市議会 会議録

これは平成元年12月22日の会議録だが、傍聴席でにわかには信じられないような発言を繰り返してるのが議員になる前の矢野氏だったことを、当時現職だった人に聞いたことがある。

この議員提出議案「朝木明代議員の発言を糾弾する決議」が日本共産党の田中富造議員によるものであったことも、今の共産党の議員たちは知らないだろう。昔は筋を通して厳しく対峙していたということになる。

それにしても、聞きしに勝るとはこのことだが、こんな会議録が平成当初の数年はゴロゴロしている。

私が矢野氏の存在を知ったのは、2002(平成14)年の春先、勤めていた保育所が矢野議員、朝木直子議員によって突如、虐待保育所だと議会で叩かれていると連絡を受け、その対応に当たった時に遡る。

地域のお母さん二人が、彼らの政治ビラである東村山市民新聞を手に、「こんなのデタラメです。この時、この公園にいましたが、全く虐待なんかじゃない。ひどすぎます」と駆け込んで来たのを昨日のことのように思い出す。

もちろん、虐待にあたるような事実はなく、彼らを昔から知る人から「何か別の目的があるはずだから調べてみた方がいい」と言われた。

彼自身が親しい者を園長に据えて市内に個人立の認可保育園を開設しようと準備に入っていたことがわかったのは、その年の夏頃だった。複数の議員から「一時そんな話もあったが、今無いってことは立ち消えたのだろう」と言われるも、12月議会が始まった頃に水面下で進行していることが判明。

100%税金で運営され、園ではなく市に申し込んで入園先が決まる認可保育園なのに、計画が議会にも伏せられていることはおかしいので、透明性をもってやってほしいという請願が、市内の教育・保育関係者から出され、12月議会最終日に厚生委員会に付託されて閉会中審査されることになった。

しかし市は「個人立だから個人情報だ」という「指示」に怯え、間もなく開園する予定だという園の名前さえ答弁を拒み、当時の厚生委員会で大問題になった。

結局、個人情報の担当である総務部長が急きょ委員会に呼ばれ、「個人情報には当たりません」と答弁し、園名や規模が明らかになった。

勤務先の保育所がなぜ彼らにいきなり議会で叩かれたのか全く分からなかったので、弁護士と対応を検討しつつ傍聴していた私に対して、「なんで勤務時間にあんなところに保育所の職員がいるんだ!?あいつの給料は誰がどこから出ているんだ!?」と議場から指差し怒声を浴びせて来た姿も忘れられない。

その後、3月の予算委員会を傍聴していた時も、ドスの利いた声で何度もすごまれ、あまりの酷さに「そっちに行くから待ってろ!」と思わず言い返した。

そんなこんなで4月の選挙に急きょ出ることになり何とか当選すると、市民新聞や彼らのHPに「創価のイヌ」「出稼ぎ市議」等と書かれ、議場では「コブタは黙ってろ」「イグアナみたいにキョロキョロしてるんじゃないよ!」「雉も鳴かずば撃たれまいってことだ」等々、悪罵を投げつけられ続けた。

こいつには被選挙権が無いと選挙人名簿からの削除要請を掛けられ、それが選管で退けられると、選挙後に当選無効を求める裁判を起こされた。

緊張感いっぱいに生まれて初めて出向いた裁判所には、百戦錬磨のホームグランド、余裕綽々の笑みをたたえる彼らが待っていた。あの顔も生涯忘れることはない。

1審、2審で負けても最高裁まで争って、人々の記憶から薄れるまでやり続けるのが彼らの流儀と聞いていたが、この裁判も最高裁で彼らの主張が棄却、確定するまで続けられた。

彼が立ち上げたコミュニティFMでは、自らキャスターを名乗ってアシスタントに新聞を読ませ、コメントと称して持論を1時間にわたって展開する番組があった。

あの3.11の日も、あくる日も、その次の日も、震災に触れることはなく、トップニュースは「東村山市民新聞からです。佐藤まさたか市議は…」という録音放送が1日6回も流れていた。

当選してきた無所属議員の以前の職を蔑み、ビラとネットで徹底的に叩いて潰しにかかり、「〇〇議員の辞職勧告を求める請願」が「市民」から出されたが、逆に彼らの差別的体質に怒った多くの人々が全国から傍聴に詰めかけ、第2会場を設けたがそれでも溢れた。

繊細な性格ゆえにメンタルで長期に休まなければならなくなった他党の議員について、自らのサイトで『長期欠席をして給料やボーナスまでも全額受け取るような「あつかましいまね」はできない』と叩き、またもや彼らの主張に沿った「〇〇議員の辞職勧告決議を求める陳情」が「市民」から出された。

ところが、2015年からの最後の4年間は、矢野氏自身が持病の治療のため全休や半休となる日が目立った。他会派の議員に向けられたあの時の発言、批判、罵声は何だったのか?と思った。

自分と違う考えを「違い」ではなく「悪」と考え、敵と認定し、徹底的に追及する。全ては敵か味方かであり、敵の敵は味方、敵の見方は敵。地方議会なのに、与党か野党か。自責ではなく絶えず他責。他人には厳しいが自分には甘く、決して「ごめんなさい」を言わない人。それが私が見て来た矢野穂積という人物だった。

2年半前の落選直後、朝木議員の傍聴に来た姿を見たのが私にとっては最後となった。

先日来、思うところあって「民主主義汚染」を読み返し、ブログマガジンエアフォースの新シリーズを読んでいた。そんな時に飛び込んで来た訃報だった。

世の中の大勢には何ら関係ないが、東村山市議会にとっても、私自身にとっても、一つの区切りであることは間違いない。

土曜夕方、市の行事があったので、ちょうど葬儀場の向かいにある中央公民館に居た。私に冥福を祈られたくはないだろうから、おつかれさまでした、とだけ心の中でつぶやき、頭を下げた。

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